おもいでの石ころ

  

三重県四日市市


 その詩を初めて見たのは、たしか「おばあちゃん」の稽古中だったと思う。
 朝から晩まで、芝居の演技のことばかり考えていた最中で演技に納得できずに悩んでいる自分を、その詩は元気づけてくれた。「おばあちゃん」の初コースの1つ、四日市実行委員会の捲きビラに、代表の伊藤洋介さんが書いた詩だった。
 97年、98年と連続して三重県四日市市で公演を行ったが、2度目の「釈迦内柩唄」で、思うように実行委員会が組織できず、劇団主催で地元の方々に協力して頂きながら公演を実現させたが、条件も悪く結果的には、あまりお客さんが入らなく少し寂しい公演となってしまった。
 しかし、その公演で協力してくれた方々が、次は是非成功させたいと、何度か集まりを開いてくれた。彼等には何も責任は無い、劇団の主催で公演した結果が良くなかっただけなのに、めいめい悔しかった思いと、チャンスがあるならもう1度やりたい、今度は自分たちの実行委員会で主催できたらと、そんな思いをそれぞれ語り合い、それでも本当に出来るか、自分たちだけでは難しいのではと何度か会議を開いた。
 彼が初めて現われたのは話し合いが行き詰まったときだった。四日市の市街地にお寺を構える伊藤洋介さんは、メンバーのそれまでの思いを聞き、語り合い、そしていつしか「あなたたちの夢を叶えましょう。いや、一緒に夢に向かって歩きましょう」と実行委員長になることを決意してくれた。
 大企業が乱立し、人間関係が薄れ、他人の事なんか構っていられなくなりそうな大都会四日市で、他人のために地べたを這いずり周り、やもすると泥をかぶる様な活動を惜しまず、それでも出来ることならこの芝居をみんなに届けたい。そんな小さな願いを伝え少しづつ大河に変わって行く、その流れを創っていく人々がまだここにいた。
 そして、どんどんと仲間が増えていった。ホンの何週間か前はまったくの他人同士が、実行委員長の洋介さんを中心に知り合いになり、友人になり、仲間になっていった。僕は何か、ものすごいドラマを早回しで見ているようだった。テレビなどでは見られない現実を感じた。
 魂が消えてしまうほどの感動をと、四日市希望ネットワーク「たまげた」と実行委員会は命名され活動がスタートしていった。

 「石ころ」
   ちょうど野球のボールが一個入るぐらいの
   黒い巾着袋に石ころが入っている。
   僕が一三の時から集め始め
   何かものすごく嬉しかったことや悲しかったことがある度に
   「思い出に」と近くに落ちている石ころを拾った。
     生まれて始めて失恋した時に一個
     親友が脳腫瘍で死んだときに一個
     妻と結婚したときに一個
     長女が生まれたときに一個……
   その石たちは今、僕の年と同じ三二個になった。
   僕は死ぬまで石ころを拾いつづける。
                    伊藤 洋介

 公演当日。
 稽古から離れていた僕を実行委員と洋介さんと、そして、あったかい大勢のお客さんが最高の笑顔で向かえてくれた。
 そして、忘れられない公演になった……。
 僕もこれから、思い出の石ころを拾おうと思う。

 記・米田 亘(1999.7.30発行 通信NO.24より