喜寿の青春

  

神奈川県秦野市


 武田「あっ、そこをあっちに曲がって、あれっおかしいな、お友達の家がどっかに行っちゃった。」
 私「ん、もうー!もっと早く言ってくれないと車はすぐに曲がれないの。それにあっち、こっちじゃなくて、右とか左とか具体的に言ってよ。」
 こんな会話をくり返し私は七七才の武田さんと町中を走った。本当は尊敬しているのに何故かいつも遠慮のない友達の様な口を利いてしまう。彼女の前ではノラ猫でも犬でも子供でも年寄りでもみんなそんな風になってしまうのではなかろうか。
 武田さんは二十才の時、広島で被爆した。その体験を聞く会で私は初めて彼女と出会った。原爆の話は知っていたはずだった。しかし、彼女の語る生々しい現実は私の「知っていたつもり」のものよりもはるかに残酷だった。もし地獄というものがあるなら、その地獄よりもっとひどいと思った。被爆体験を語ると言う事はその地獄を何度も何度も再体験することなのだ。口を閉ざしたままの被爆者が居て当然だと思った。涙も息も凍りついてしまったような気がした。白髪に赤いセーターのよく似合う彼女の話し振りは「それで、あれが」と要領がよくない、だからこそ一層の真実が伝わってきた。溢れてくるものを全生命を賭けて語っているのがよく解る。彼女の語るむごたらしい現実は、しかし不思議なことに暖かなものが聞く者の心に残る。広島城の近くで学徒動員の作業中、直爆を受け上半身黒焦げになりながらも、ただ一人生き残った弟さんは臨時の病院となった小学校に担ぎ込まれた。その校庭に祀られていた「天皇陛下の御真影」の前で黒焦げ状態の彼がムクッと立ち上がって敬礼をしながら大声で「教育勅語」を叫んだ、その声に驚いた軍医が飛んで来て「分かった、良く分かった、もういいから休め」と言って身体を横にさせた。

 その弟さんは五日後、コスモスの花に顔をうずめて亡くなった。中学二年生の夏である。
 武田さんは昨年までの八年間、十三日間の「通し行進者」として毎年、平和行進に参加している。彼女の一歩一歩は広島で亡くなった家族、親戚、友人、そして彼等を捜すために、文字道り屍をこえなければ歩けなかった、あの人達への弔いの一歩一歩だと言う。「歳がたつにつれ、あの日のことがカラー映像になって甦る、七七才の私にはもう時間がありません。」と語った。

 気が狂いそうな悲しみ、絶望、怒りを背負って武田さんは生きてきた。彼女の少女のような自由でまっすぐなまなざしと明るさは「釈迦内柩唄」のふじ子と同質だ。私は七七才のふじ子と出会った。彼女と劇場を創りたいと思った。
 「昨日まで皆様がチケットにみえていました。今は皆様のお顔が有り難い仏様のようにかがやいてみえます〜。」開演の挨拶を終えた武田さんが半べそをかいた様な顔でロビーに現れた。

 彼女は今、地元の劇団「ポテト座」に入るんだと言っている。

 記・玉井 徳子(2004.01.01発行 通信NO.35より)