無財の七施

  

兵庫県姫路市


 コッツン、コッツン。コッツン、コッツン。山本さんの家に響く杖と装具の音。コッツン、コッツン。 万歩計を腰に下げた六三才の山本義幸さんのリハビリ歩行の音が泊めてもらっている私の部屋まで響いてくる。身体の不自由な山本さんは一人では外に行けない。午前中一時間、午後一時間、夕方一時間、一日一万歩を目指し家の中を歩く。
 山本さんの奥さん定子さんは私が演劇の扉を叩いた時からの大先輩、彼女が制作部の仕事で姫路にきたおり、当時青年団の団長をしていた山本さんと出会い、恋をし、悩んだ挙句劇団をやめて結婚した。以来、劇団の仲間達と一度訪ねたことがあったが、劇団自身の変遷もあり、二十数年会うこともなかった。今回希望舞台初めての兵庫県の仕事に当たって、姫路事務所の設置には地域の人々から信頼されている山本夫妻の人柄があったればこそ実現した。
 二十数年前に会った時、山本義幸さんは職場の仲間の為に一生懸命働く組合の役員だった。お酒もめっぽう強く、豪快でまぶしいような存在だった。キラッとした眼差しは変わらないけれど、今、目の前にいる山本さんは、丸狩りの頭の左のこめかみから後頭部にかけて残る手術の傷跡、内側に曲がったままの右腕、動かない右足、思うように言葉が出て来なくてもどかしそうな口元。
 山本さんは六年前に脳溢血で倒れた。四時間の手術で一命はとりとめたものの自分の名前も奥さんの顔も息子の顔も分からない、植物人間の様な状態になった。
 山本さんが懸命に云う『これ何やたっけ、分からんのや、これおおとるけ』といって一冊のノートを持って来た。そのノートには2+2=4 木 林 森 など小学校で習うような計算や漢字が震える字体でギッシリ書かれていた。皆の先頭に立っていたあの山本さんが何十年振りに会った私に恥じることなくノートを見せて『分からんのや、ここがだめで』といって頭を叩いた。あの山本さんがゼロから虚心に生きはじめている。自分を恥じないその姿に私はショックと共に感動した。
 山本さんには可愛がっていた甥がいる。若き医者であるその彼が脳を失った彼に云ったそうだ。『おじさん、大丈夫だよ、失った脳の部分の働きは、使っていれば他の脳が必ずその働きをするように変化するから』。その通りに山本さんは人間の生命の神秘さと可能性を立証している。生活のほとんどを介護なしには生きていけない山本さんだけど山本さんの存在そのものが私をはじめどれだけ多くの人を励まし勇気づけているだろうか。「顔施」という言葉を思い出させてくれる。
 山本さんが青年団活動をしていた頃の友人を紹介してくれた。その人は太子町の町会議員をしていた、聖徳太子ゆかりの、町のシンボル斑鳩寺を会合場所に町内各界の方々の結束で劇場は満杯になった、受付には議会議長さんまでが、かり出されていた。
 トイレが近いので演劇の公演などには決してでかけない山本さんの車椅子姿がロビーにあった。青年団当時の、今は互いに白髪になっている数人の仲間と再会を喜び肩を叩き合う山本さんのキラキラした笑顔が映画のラストシーンのように脳裏に焼き付いている。
 コッツン、コッツン。きっと今日も山本さんは歩いているだろう。

 記・玉井 徳子(2005.08.22発行 通信NO.38より)