「おめえっちゃ
   今夜になれば何か食えるら。」

  

山梨県身延町


 身延山高校の校長室をノックした。「ハイどうぞ」と言って大きな声と共に大きな体の大きな顔の山内校長先生の姿。「昔、映画館で観たMGM社のタイトルのライオンだ、たてがみのふさふさした、大きな口を開けて威風堂々のライオンが「ガオー」と吠えているアレだ。声はまるで応援団長の様だ!。身延山高校は日蓮宗の本山のなかにある学校。きっと校長先生はうっかり軽口なんかたたけない、近寄り難い雰囲気のお坊さんに違いないと思っていたから驚いてしまった。
 楽しく豊かなひとときだった。「玉井さん、今教育について色々言われていますがね、教育なんて一途に貫いていけば決して難しい事じゃないんですよね、私なんか自分が親から教えられた事を身をもって伝えてるだけなんですよね」と言われて子供の頃の話になった。先生の家は身延の大地主だったが三歳の時に父親と死別。戦後の農地解放で農地は没収され家は没落、お母さんは七人の子供と親戚の子供二人の計九人を育てあげた。汗と土にまみれ畑をはいずりまわって働いた。でも子供達はいつもお腹をすかしていた。先生のお屋敷は身延山詣の街道に面しており、その人達が一休みする為か巾三尺ぐらいの縁がお屋敷に沿って五間に渡って設けられていた、昼ご飯の頃になるとそこにお参りの人目当てに物乞いもやってきていた、そんな時はお母さんは必ず子供達のお皿から平等に食べ物を少しずつ取り上げ、竹の皮に素早く包み、物乞いの人たちに分け与えていた、「何で俺の取っちもうだ!」と泣き叫んですがる子供達に向かって「おめえっちゃ今夜になれば何か食えるら、あの人達ちゃあ、今夜になっても何も食えれんだ。こんつれえのこと我慢しろ!」と言うだけだった。
 又、お屋敷の納屋には近くのトンネル工事をしていた朝鮮人労働者が何人か泊まっていた。疲れているその人達を先にお風呂に入れることもしばしばで先生が入る頃はもうお湯は黒く汚れていた。
 お母さんは五つの事をいつも先生に言っていた。『一、何処にいてもお天道様はみているぞ。二、人から後ろ指さされる様な事はするな。三、みんなに生かされてるんだ感謝を忘れるな。四、人が先、自分のことは後でよい。五、涙を流せる人間になれ。』
 お母さんは仏様への感謝をいつも忘れない方だったそうだが、七人姉妹の末っ子で将来、山内家の家長としての責任を背負って生きて行かなければならない幼い息子へ母親からの戒めだったのかもしれない。
 身延山高校は山の上。ある日先生は破れた靴で通う女生徒を見つけた、登山のベテランの先生はあの靴では下りの下校時に危険だと思い「その靴は危ないから捨てなさい」と言った。女生徒は「いえダメです、これは故郷の両親が入学のときプレゼントしてくれた靴です。」先生は胸を突かれた「すまなかった。分かった。先生がなおしてやろう」と言って布の部分は縫い、靴底は先生の古い靴底を取って細工した。(先生の専門は建築工学だから実に緻密で器用なのだ。)生徒は三年間その靴を履き通し、卒業式を迎え、誇らしげその靴を履いて故郷の長崎に帰って行った。
 「釈迦内柩唄」08年の初日、身延町公演の導火線はこの校長室から火がついた。昼夜二回の公演は見事な成功を納めた。
 懇願され数回に渡って退職を延ばして来た先生も遂に今年、健康上のこともあり、退職なさった。ところが、校長室の片隅に「顧問」なる札の机が新設されていた。教職員、生徒挙ての嘆願の結果である。でも先生個人の望みは本来進むはずだった建築工学の夢だ。永年、生徒の方しか見て来なかったこともあり、身体を悪くした奥様への罪滅ぼしも兼ね、一緒に車で日本中の古い民家を訪ね歩き研究し、スケッチしてゆく旅をしたいのだと言われていた。そんな旅をさせて上げたい。そして旅先の私達とバッタリ会う事があったりしたらどんなに楽しいだろう。

新米校長先生になった教え子に語った十訓
 教師心得十訓
一、自分が真理に目を背け、
    子らに真を語れるか
一、自分が正義を犯しながら、
    子らに正義を語れるか
一、自分が未来から目を背け、
    子らに明日を語れるか
一、自分に誇りを持たないで
    胸を張れと言えるのか
      強く生きろと言えるのか
一、自分が輪から外れていて、
    自分がスクラムを組まないで
      子らに友情語れるか
一、闘うことから目をそらして
    子らに勇気を語れるか
一、自分が両手を汚さずに、
    自分が汗を流さずに
      苦難に挑めと言えるのか
一、自分が理想を持たないで
    子らに夢を語れるか
一、自ら己を省みて、自ら率先垂範し、
    青春時代の貴さを
      力いっぱい伝えたい
一、他人の喜び悲しみに
    共感もって称えたい、
      共に悲しみ分かちあいたい
             山内 惟治

 記・玉井 徳子(2008.08.14発行 通信NO.44より)