再会、花づくりの二人

  

福井県永平寺町


 永平寺町での公演を大成功させた青年団の仲間達との、いよいよのお別れの日、彼らがいきなり大きな声で「りんごの唄」の代え唄を歌って送ってくれた。みんなの優しさと恥ずかしさとで胸がいっぱいになった。あの時から40年程経った。
 8月18日、当時青年団の団長だった吉田通治さんが、「焼け跡から」の永平寺本山公演の日程と併せて永平寺町での一般公演を仲間達に呼びかけてくれた。彼は仏花の切り花を主にした花の生産者である、この時期は睡眠時間も取れない最も忙しい時だ。にもかかわらずお盆直前の日曜日の朝一〇時と、昼二時の二回の公演となった。朝と昼の開演なら地域の人たちも多忙なこの時期でも来てくれるだろうと、前代未聞の開演時間を設定した。
 公演班一同を乗せたマイクロバスがインターを降りると「焼け跡から」のポスターが目に入り案内板が導いてくれる。劇団員の感嘆の声が上がる。
 通治さんは30才の時サラリーマンを辞めて減反で休耕田になっている田んぼを借りて花作りの専業農家になった。「現代の流通機構はおかしい、僕は生産者と消費者が見え合い、喜び合える関係の花作り農家で生きていく」と熱く語っていた。設備投資などの借金はしなかった。今でこそ「地産地消」「産直」が当たり前のように言われているが、当時は変人扱いだった。63才の今、吉田さんは誰もまね出来ない地域に根ざした切り花農家の第一人者、がっしりとした手はゴツゴツと花を育てた年月がしみ込んでいる。
 混雑するロビーに涙が出るほど懐かしい顔を発見!「バラ達ちゃん」の声。彼は寒冷地の福井でバラ作りに挑戦し続け、品質ともに北陸一のバラの生産者になっている。「不可能、無理」と周囲から云われ続けた。
 毎年の年賀状は家族の楽しい一コマ漫画。奥さんと娘さんが楽しそうに唄っている横でお父さんの彼はふーふーいいながら働いているのだ。設備投資も借金もして現代の機構と四つに組んで戦い続けて来た。
 20代のあの頃、私はのっぽで痩せっぽっちの彼のひたむきさを共感しながらハラハラと心配していた。「玉井さん!」と呼ぶ声、目の前に恰幅の良い存在感のある中年紳士が立っていた。やさしい澄んだ眼差しは少しも変わらないバラ達ちゃんだった。
 通治さん、達ちゃん、私、人生について熱く語り合った遠い昔、三人ともすっかり白髪頭になった。 
 私たちはそれぞれのやり方で時代に向き合いつづけて生きて来た。嬉しく誇らしい再会は開幕を知らせる一ベルと共に劇場の興奮へと引き継がれていった。

  記・玉井 徳子(2014.01.01発行 通信NO.53より)