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希望舞台の出会い

「じゃ〜!あした〜!」

山梨県南アルプス市

 「じゃ〜!、あした〜!」女性市議の森岡さんと埴原先生以外は初対面の方達の前でオッチョコチョイの私は思わず叫んでしまった。初公演地、南アルプス市の実行委員会での事でした。
 すでに孫もいる60代後半ぐらいの大人が20人、もと女性校長だった方が何人もおられた、もと農協の課長さん、荒波の中で会社を興した方と、普通の主婦やおばあちゃんとは違う強者ぞろい、男性は3人、やはりもと校長先生とこの中では一番若手の40代の市議。話しを聞けば何と、殆どの方が現役の教師時代に新制作座の「泥かぶら」を招致したり、取り組んだりして観ておられたのだ。
 「じゃ〜、明日〜!」と言うのは、『泥かぶら』というあだ名で呼ばれ、皆から蔑まれていた主人公の孤児(みなしご)の少女が、初めて出来た友だちの身代わりになり都に売られて行く場面。涙で見送る村人たちに向かって「じゃ〜、あした〜」と底抜けの明るい声で去って行く幕切れのセリフ。
 演劇など無縁の生活だった私が人生を投じようと入団した新制作座の名作であり、(真山美保作)子役で舞台に付いて廻っていた私の旅人生の始まりの作品だった。泥かぶらの様に、何年経っても心に息づいている映画や舞台がある。イタリア映画「道」のジェルソミナも中学生の頃観て悲しすぎてイヤだったはずが、年令を経るに従って大切な人物となり、心の中で分身の様に生き続けていてる。泥かぶらは初めて出会った人達の中で生きていた。
 私達は見えない赤い糸で繋がっていたんだと喜び合った。西室さんは今は亡き新制作座当時の先輩の手紙を見せて下さった。相原先生はやはり今は亡き人も写る先輩達の写真を見せて下さった。先生のお宅に民泊した時のスナップだった。いずれも半世紀近く昔の記録だ。
 この実行委員会のきっかけとなったのは「親子で歌う童謡の会」を何十年も続けておられる70代の埴原先生。この会の長老?の彼女はかって、中学校の音楽の教師。その学校では『子どもたちに科学と芸術を』『本物の、よい文化を。』と新制作座を呼んだり、無着成恭さんのお話しを聞かせたりと豊かな実践が行われていた。その学校で育ち、今は結婚し中道町に住む主婦の桑原直美さんが私の20年来の友人で、「きっとあの町なら出来るわよ」とある夜、私を埴原先生の所に連れて行ってくれた。それがはじめの一歩だった。
 超満員の当日、森岡さんは真っ赤な眼になって観客を送り出していた。
 お別れの会で深沢敏弘先生が「情報の溢れる時代だが情報は文化ではないのだ…」と言われた言葉が胸に沁みた。人の心から心へ手渡してゆく人間の文化の火種は眼にはみえないし手でも触れないけれど、それを大切だと思う人々の手で温もりと共に受け継がれて行っている、私は幸運にもその運命の赤い糸に出会った。
 離れ難き、忘れ難き会は「コスモスの会」として残り誰かが何かを発信したいときに力を寄せ合う事になった。私は勿論、遠隔地会員である。お別れに又言ってしまった。
「じゃ〜、あした〜!」

記・玉井 徳子 (2010.01.01発行 つうしんNO.47より)